「明日は雨だべ」。背中越しに聞こえたしわがれ声に振り向くと、魚のウロコだらけのカッパを着た老漁師が立っていた。穏やかな日差しの中で釣りをしていた僕は意外な言葉に驚き「こんなにいい天気なのに?」と聞き返す。「雨のにおいしねが」。におい? モヤッとした春の風景の中で僕が感じ取れるのは、水色のカッパが発するあきれるほどの生ぐささだけだった。

「なんも釣れねべ。わざわざ来たのにすまねな」。赤黒く潮焼けした老漁師は、僕ではなく海でもない、水平線のさらに奥を見つめるようなやさしい目で〝誰か〟に言った。

若い頃は北洋に漁に出たという。恐ろしいほどの寒さは体だけではなく心まで凍りつかせ、陸に上がれば胴巻きにしこたま金を突っ込んで飲み歩き、女を買った。「女なんて金さえあればと思ってたんだどもよ、ババに一目惚れだ。わがんねもんだな」と大声で笑う老漁師の姿は豪快だがどこか繊細で、一瞬、生きることの意味が春霞(はるがすみ)のようにぼんやり見えた気がした。

人生は底知れないほど頼りなく、明日の自分など、かげろうのようにつかみどころがない。しかし、交じわること自体が奇跡とも思える赤い糸は人に出会いという夢を与え、僕らは絡み合った赤い糸を紡いで生きていく。

結婚してからも生活のために北洋通いは続き「ババに寂しい思いさせた」と老漁師がつぶやいたとき、愛という言葉とは縁遠そうに見える海の男の中に、熱さではなく、穏やかだが揺るぎない本物の何かが見えた。

「子どもはおっきくなったしババと2人でのんびりだ。大した漁もねぇけどな」。少し間をおいて老漁師の口から出た言葉は僕の心に柔らかく染み込み、ふんわりした感触で静かに広がった。

「あそこの山見れ、ほら、サクラ。若いころはよ、漁から帰ればババが酒持って出迎えて港で酒盛りしたもんだ」。うっすらとピンクがかった木が1本だけ山の中腹にあり、老漁師はいつまでも人差し指を突き出し「あれだ、あれだ」と繰り返した。

翌朝、僕は岬の先端にいた。湿っぽい空気が体にまとわり付き、水平線は空と海の区別がつかないほど白く、雨はそこまで近付いていた。においか…この雨でサクラが咲くな…。
(菊地 保喜)