「隣に入ってもいいが」と声を掛けてきたのは、ガッチリした体つきで180cmを超えていそうな長身の男。少しかすれ気味の野太い声は、夜明け前の暗さの中ではかなり威圧感があり、断わることなど許されない雰囲気だった。間もなく夜が明け、サケたちとのバトルが始まる。

「どうぞ、どうぞ」少しばかり窮屈だが、むげに断わるわけにもいかない。いや、それ以上に彼のガタイのよさに腰が引けた僕には、口が裂けてもいやとは言えなかった。

「兄さん、どっからだ」「札幌です」たわいもない言葉を交わしながらも、できるだけ見ないようにする。帽子の下は短髪かスキンヘッドに違いない。暗さが妄想に拍車をかけ、会話が続かない。

薄明るくなると同時に周りで一斉にキャストが始まった。「どおら、今日は釣れるがな」とつぶやいた大男を横目でチラッと見る。ん? 頭の中にこわもての大男が出来上がっていた僕の目に映ったのは、70歳を優に超えていそうな、しわだらけで人のよさそうな年寄りだった。

緊張が一気に解ける。しかも、よく見ればじいさんよ、ルアーが逆さまだぜ。大男が年寄りだということだけでリラックスした僕は、ルアーが逆であることを言おうと思ったが、やめた。サケが跳ねている。今そんなことを言うのは野暮だし、何より敵が一人減った。

「よし!」大声を出した年寄りがロッドをあおり、サケごときではびくともしそうにないごつい腕が力任せにサケを引きずり上げる。「よし!」2匹目が掛かった。「よし!」3匹目…。脱落したはずの敵に猛攻撃を掛けられた僕はなすすべもなくボロボロになり、砂浜に崩れ落ちた。

この朝、僕は5回の「よし!」を聞いた。そして、僕には「よし!」が一度もやって来ず、朝の勝負タイムが終了した。クマのようにサケを背負った大男のじいさんは帰りしな「残念だったな兄さん。だけど、あれじゃ釣れねえべ。兄さんのルアー逆さまだもな」と、にこやかに笑いながら言った。
(菊地 保喜)