深夜0時を過ぎた知床の漁港には人影もなく、静寂に支配された闇の中で、街灯の明かりだけが寂しげに海を照らしていた。肌を刺す冷たい空気は体の周りだけが一瞬暖まり、僕の存在を明らかにする。釣り人は魚の釣れなくなった港に用などない。にぎわいは束の間の出来事。
漁のおこぼれにあり付くためにすみついた野良猫が、エンジンの暖かさを求めて車の下に潜り込もうとする。10月中旬というのに夜はもうとても寒い。オマエは冬の間、いったいどうしてるんだ? いったん止めたエンジンをかけ直してからロッドを手にする。ヤツだって暖かくない車の下になど用はないはずさ。
あったかいだろ。でもマフラーには気を付けろよ。もう間もなく雪が降るのに、背中の毛が焼けてしまったら冬がますます寒くなるからな。分かったって、そんな目で見るなよ。今、デカイの釣るから。
1時間近く掛かって僕はやっと1匹のコマイを釣った。存在すら気付かれない一つの小さな命が生き長らえるために一つの小さな命が犠牲になる瞬間、僕は、魚や野良猫として生まれた命と人間として生まれた命の重さを比べていた。
どこかで出会った女性が「子供を生んだだけの人生なの…」と、寂しそうにつぶやいたのを思い出した。
違う。たとえ片隅に埋もれてしまいそうなちっぽけな人生だとしても、生きる意味は自分自身の中にあり、だからこそ生き続けられる。ガキでもないのに愛って何だろうと考えてしまう。そんなことはどうでもいいから「もう1匹魚を釣れよ」とヤツがねだる。
その夜、僕はエンジンをかけたまま野良猫と一緒に眠った。知床に生まれ、誰にも気付かれないままここで死んでいく命が僕の車の下で暖まり、永遠に続けばいいはずの静かな時が流れた。
翌朝、ヤツは漁師の軽トラのそばにいた。生きていけ、そうやって。求めても与えられるとは限らない幸せがオマエを苦しめても、すべてのことはつかの間。知床は寒いだろうな…。
(菊地 保喜)