急な坂道を下った先の小さな集落は雨と濃い霧にすっぽり包まれ、数えるほどしかない家の何軒かは人が住んでいないようで荒れ果て、悲しみの中にたたずんでいるようだった。軒下を通るような狭い道を静かに海岸に向かう。沖に投げたはずの仕掛けは初めから存在しないもののように霧の中に吸い込まれ、僕は波音の中で初めて訪れた集落の空気に同化する。

砂粒がきしむような足音で振り返ると、おじいさんが立っていた。狭い空き地にとめた車が気になった僕は、あいさつで場を取りつくろいながら「邪魔ですか」と声を掛ける。「なんもだ」あっけないほどおおらかな返事と、目じりがしわくちゃになる笑顔が返ってきた。

おじいさんは雨にぬれながら長い時間僕と話し込み「じゃあ」と手を上げて帰って行った。少し離れた家の玄関先で、おばあちゃんがタオルを持って出迎える。「札幌からだとさ」そんな会話が聞こえてきそうな美しい光景だった。おじいさんが話した「町に出た」という子供たちは、お盆休みにあの家に帰って来るのかな。

海で出会う年寄りはまるで決まり事のように「子供たちの帰りが楽しみだ」と口をそろえ、潮焼けした顔の深いしわと手の甲のたるんだ皮膚が、子供たちを育てるために費やした人生の重さを物語る。人はいつから自分の人生の終わりを見つめ始めるのだろうか…。 

静かだった。特別なことは何もなく、特別な話があったわけでもない。ゆったりした口調で昔を語るおじいさんに、僕はただ相づちを打つだけ。時だけが穏やかに過ぎ去り、再び一人になったとき「今日は釣れないな」と感じた。釣りは魚の命と向き合う遊びだから、心のどこかが尖っていなければ魚を釣るのは難しい。今日の僕はやさしくなり過ぎた。

人は言葉でしか思いを伝えられない。海を見つめながら子供たちの帰りをじっと待っても思いは伝わらない。この集落で幼いころを過ごし、思春期を過ごし、そして今もここで生きるおじいさんは空き家の意味を知っている。僕の最新鋭の赤いロッドがとても悲しかった。
(菊地 保喜)